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アンドレイ・ガヴリーロフ 経歴
アンドレイ・ガヴリーロフは1955年9月21日モスクワの芸術家一家に生まれた。父親ヴラディーミル・ガヴリーロフは偉大な画家で、その作品は世界各国の有名美術館に所蔵されている。母親アッサネータ・エギセリャンはゲンリフ・ネイガウスの弟子であり、ガヴリーロフに初めてピアノの手ほどきをしたのもこの母親であった。幼少の頃からガヴリーロフは並はずれた音楽的才能と燦然と輝くようなテンペラメントを発揮し、3歳で耳から聞いたモーツァルトの『レクイエム』を弾くことができた。1961年にモスクワ音楽院付属中央特別音楽学校に入学。学校創立者であるアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの弟子であったタチアナ・ケストネルの元で学んだ。後、レフ・ナウーモフに師事。
1974年、ガヴリーロフは最も有名なコンクールであるチャイコフスキー国際コンクールで1位を獲得、音楽界の注目を一身に浴びることとなった。
1974年4月、急病のリヒテルにかわってザルツブルク音楽祭に出演、代役を見事に果たす。これをきっかけとしてガヴリーロフは偉大な音楽家リヒテルと親交を結んだ。両者はヘンデルの『鍵盤組曲』を共演、録音を行った。(この時の演奏はソ連の音楽界において最も宗教的な演奏の一つと言われている。)
1976年、パーヴォ・ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団との共演でロンドンデビュー。1978年、ベルリン・フィルと共に初めてツアーを行い、世界各国の主要都市で30回の演奏を行った。
しかし1979年12月、ヘルベルト・フォン・カラヤンとのツアーを準備している時に、KGBにより突然出国の自由を剥奪された。以後5年に渡り自宅軟禁状態に置かれた。
そのガヴリーロフが英国の音楽シーンに華々しく復帰したのは1984年のことであった。彼は当時の書記長ミハイル・ゴルバチョフに移動の自由を求め、許可されたのだった。その結果、ガヴリーロフは政治亡命もせず、ロシア国籍を保有したまま自由に活動できる、ソ連で初めての音楽家となった。
1985年、カーネギーホールデビュー。『ニューヨーク・タイムズ』に「現代最高の音楽家」と絶賛される。以後、世界各国の主要都市(ニューヨーク、ロス・アンジェルス、デトロイト、クリーブランド、シカゴ、フィラデルフィア、モントリオール、トロント、マドリード、ウィーン、ロンドン、パリ、ベルリン、ミラノ、ミュンヘン、アムステルダム、東京など)においてリサイタル、およびオーケストラとの共演を行う。また共演した指揮者もアバド、ハイティンク、ムーティ、小澤征爾、スヴェトラーノフ、テンシュテット、ラトル、ネヴィル・マリナー他、多数にのぼる。
1994年から2001年に至るまで、ガヴリーロフは自らに満足できず表舞台から遠ざかり、宗教哲学の研究と新たな演奏技法の追求に専念した。2001年、スタイルの全く異なる4つのコンチェルトを一晩で演奏するコンサートをモスクワで行い、大成功を収め、再び世界の音楽界に復帰した。彼のコンサートは以前にもまして聴衆と批評家の支持を受けている。
ガヴリーロフはグラミー賞、国際批評家連盟賞(IRCA)など、受賞者が非常に限られているあらゆる主要な賞を受賞している。また「マン・オブ・ザ・イヤー」および「ベスト・ピアニスト賞」(ユネスコ、ケンブリッジ大学、フランス音楽アカデミー、世界最古の音楽学校であるイタリアキジアーナ音楽院、他)を複数回に渡って授与されている。
American Biographical Institute (ABI) は芸術部門におけるガヴリーロフの功績に対し金メダルを、また世界協調への貢献を認めてワールド・ライフタイム・アチーヴメント賞 «World Lifetime Achievement awards»を授与した。1998年、 «Philips» による「20世紀のグレートピアニスツ」の一人に選ばれる。2000年、ケンブリッジ大学の栄誉殿堂入りを果たす。
ガヴリーロフは来シーズンも主要各国でのコンサートに招聘されている。
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